荒野に望む


Written by 中村茂樹

1974年富山県生まれ。制作会社勤務を経て、フリーランスライターとして活動する。有限会社ホノカ社代表。大阪府門真市在住。

もう丸一日 列車に乗っている
窓からは昨日と同じ景色
ベトベトしたシート
脇の下のような匂いが充満する
ドス黒い二等寝台車
向かい合う乗客たちは皆靴を脱ぎ
合宿所の玄関のように
誰の靴だか分からなくなり
たわいもない会話をたのしむ

となりの乗客にどこへ行くのかと聞かれ
僕はカッチと答えた
なんだと
あそこは荒野だ 何もない
なぜあんな場所へ行くというのか
そうだろう
僕は答えに迷ったふりをして
少し窓の外を眺めた
そう
僕は荒野へ向かっている
広大な大地に一瞬の安らぎを求めて
あるいは
そこには何もなかったとノートに記すために
誰もいない荒野にも
きっとコトバはあるだろう
修行僧が線路を西へ歩いている

退屈な昼下がり
窓越しの夫婦が口論している
妻は小さな声で夫を問いつめる
妻の座席番号は十四番
夫の座席番号は窓際十五番
僕の座席も窓際十六番
夫婦が向かい合って昼御飯を食べるために
僕と座席を取り変えた
動かない夫
声の小さな妻
向かい合う夫婦が口論を続け
やがて何も語らなくなった
夫婦の荷物はカバン一つ

やがて陽が落ち
橙色の光とともに
窓際の女もだんだんと美しく見え
一向に変わらかった景色が薄れていく
外はまっくらになり
この地を照らしていたのは
たった一つの太陽だったと今日も気付く
向こうの乗客がラジオで音楽を流す
しつこいほどの甘い匂い
またどこかで誰かがカレーを食べている
そのとき僕は思っていた
見ず知らずの町へ向かう
異国の列車に揺られていると
いままで押し殺していたものが流れ溶け
新しい生活が始まる気がする

窓越しの夫婦がアルミホイルを広げ合い
シートに晩御飯のカレーを広げる
小麦粉のパンをドロドロの液体に浸し
夫も妻も口に入れる
向かい合う夫婦は
カレーをはさんであぐらをかき合い
もくもくと食べる
限りなき日常
口数の少ないこの夫婦は
夜毎そうしているように二人で食べる
さっきまで口論していた夫婦
動かない夫
声の小さな妻
そういえば
ジャイプルでの待ち時間
妻はじっとホームを眺めていた
夫は停車時間にホームのカレー屋に行き
妻はカレーを買う夫を見ていたのだ

夫婦は食べ終え
カレーのアルミホイルをたたみ合う
四本の手がみるみるホイルを小さくし
走り抜ける列車の窓から投げ捨てる
しゃべらない夫婦はまた向かい合う
カレーを食べてから
何があったわけでもなく
妻はだんだんと美しく
だんだんと夫はたくましく見え
列車はゆっくり南西へ向かう
どこからか聞こえてくる音楽
夫も妻もふと
壁にかけたカバンのヒモを指でいじっている
やがて妻は身を崩した
壁にかけたカバンに顔を寄せて枕にし
ゆっくりと瞳を閉じた
横になって眠ろうとする妻
夫はかたわらで座っている

夜十時
乗客たちは寝台を組み立てる
二等列車深夜急行
返すよ ここはYOUのベッドだ
夫は十六番の寝台を叩き
白い歯を見せニカッと笑う
僕は本来の座席番号に移る
夫のかたわらで眠る妻
夫は十四番で眠らない
夫婦の真上で僕は眠る
限りなき日常
二等列車深夜急行


    ※   ※


カッチ平原
四年間雨が降っていない荒野
その入り口にある
城壁で囲まれた町 ブージー
牛糞の匂いと砂塵が町にこもる
バザールの売り子も店主もこじきたちも
まんべんなく砂埃をかぶり
僕を見つけてハローと言う
ケンカを見ない町 ブージー
野良牛がバザールの真ん中で小便を垂らす
通りかかった老人は
すかさず牛の肛門に手を当て
その手で自分の額をこすり短く祈る

僕は城壁の外に出ると
何も考えることをしなかった
一本の電線に添って続く荒野への道
この道はどこにも辿り着かない
誰もいない何もない
きっと美しい景色もないだろう
だが
僕がそこへ向かう確信と理由
花一本咲かぬところであっても
そこにはコトバがある
太陽が昇り降りするだけの荒れ地
だがコトバがある
何千年の昔から
石のようにコロンと
初めからそこに転がっていたコトバ
通訳も辞書もいらない
そこに立つ者がどの国の者であろうと
日本人が行けば日本語の
フランス人が行けばフランス語の
中国人が行けば中国語の
あらゆる民族のコトバが一つずつ
そこに転がっている
僕は砂埃に埋もれた一片のコトバを
拾いにいくのだ

今夜も安宿の堅いベッド
旅の一日は早く終わるのに
何年もこの町で暮らしている錯覚
夜吹かし癖も気付けばなくなり
いつも決まった時間に眠くなる
指を入れれば真っ黒い鼻糞
爪も黒くて
身体も服もあちこちから匂う
僕は寝転びながら歯を磨き
もうこんな旅は最後かもしれないと考える


    ※   ※


それは町外れの敷地にあった
パンジャラポール
死を待つ動物たちの家
ある牛は子供を産んで年老い
主人に連れてこられた
ある牛は病を持ったがゆえに捨てられ
またここに拾われてきた
スタジアムのような広い敷地に
目のない牛
肛門に巨大な腫れ物のある牛
二度と立てない牛
何の病か涙を流し続ける牛
そんな牛たちが四二五頭
そして五十頭弱の水牛たち
らくだ やぎ 鳥たち
荒野で腐り果てるはずだった動物たちが
ここで生き続けていた
その一匹一匹が猛烈なハエにたかられているが
この動物たちはすべて生きている
町の外れの動物たち
死に際の安らかな物想いにふけるために生きる

牛の世話人たちが一斉に掛け声をあげ
まだ動ける牛たちは草を食いに
のろのろと牛舎から出ていった
残った牛たちは動かない
ここはおもちゃもテレビも鏡もない牛舎だが
彼らはときおり眼を合わせ
存在を確かめ合う
世話人がこちらにやってくる
ようこそ来てくださいました
棒立ちの僕にチャイをふるまう
このミルクは自家製だという
僕は
死にかけの雌牛が出したミルクでチャイを飲む
ひと口飲むと チャイの水面にハエが二匹

灼熱の午後
メガネの老医師がやってきた
ウエルカム
僕に握手を求めてから
老医師は猛烈なハエ群の中に踏み入り
牛たちを見舞った
老医師は腰を降ろし 膝を付け 牛糞を嗅ぎ
牛たちの状態を一匹ずつ把握する
城壁の外
町の外れの動物たち
すべてを繰り広げる大地の片隅


    ※   ※


カッチ平原には雲がない
雨が降らす必要がないために
どこにも雲はない
僕はその突きぬける青空の下に踏み入れる
老いた樹の列
ひえあがった川
身を寄せ合うラクダの群れが
タンカーのようにゆっくりと西へ進む

歩いていった先に小さな村
とんがり頭の家の並びに向かうと
僕は子どもたちに囲まれる
壁と壁の間で働く女たち
村の娘がわずかな住人のために着飾る
この集落が カッチ最北の村
村長が僕に言った
ここから先からは
茂みがあり
砂地があり
広大な水溜りがあり
そしてまた茂みがあり
ついには何もない荒れ地になるという
集落の隅の砂地
大地にひざまつく男が一人
荒野にうち捨てられた寺院
ハヌマーン神が風に向かって立つ

突きぬける青空
かたくひび割れた地面
どこにもたどりつかない道
僕は再び歩き出す
吹き荒れる突風
酸素すらないようなこの地にも
風がやってくる
荒野も人を欲しているのか
それとも誰かが来るのを待っているのか
人と動物を受け入れるために
新しい空気を流し込む
僕は再び
この永遠の風の中に歩き出す

どこまでもひびわれた地面
誰も渡る必要のない土地
落ちていく太陽
老いた樹と乾いた草
黄土色の砂埃
僕の息づかい
荒野の果て
人影ひとつ
抱きしめ合う男女
僕は
彼らに話しかけることをしなかった
すべてを繰りひろげる大地
限りなき日常
割れた地面
落ちていく太陽
愛し合え
この世界に
もう一人のお前がいる


中村しげきブログ
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