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■誕生日が来たS
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まずはノストラダムスの予言である。五島勉氏の翻訳によると、
1999年 7の月 空から恐怖の大王が降ってくる アンゴルモアの大王を復活させるために その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに支配するだろう
恐怖の大王とは何者か、そしてアンゴルモアの大王とは? アンゴルモアの大王が復活するとは、どういう意味であろうか。それを霊性の卓越したわが師は、著書によって示される。
アンゴルモアの大王とは、アーガマ(仏陀直説の経典)とモンゴルの複合文字だとされ、仏陀釈尊だと喝破された。
釈迦は生涯を全国行脚され、法を説かれた。しかし、それは説法であり、決して文字にはされなかったのである。釈迦滅後、主だった弟子たちが集まり、かっての説法を集約し文字にしたのがアーガマ(阿含経)だったのである。
しかし、釈迦の滅後2000年の間に、時の為政者やグルたちにより経典は改ざんされ、「如是我聞」のもと7000巻にも及ぶ経典が作成され、中国・朝鮮を経て日本にも伝わったのである。
そしてこのアーガマは中国の天台大師チギによって経典の品定めが行われ、アーガマは小乗経典として省みられることはなかった。
ではモンゴルとは何を示すのであろうか。実は釈迦はモンゴリアンだったのである。それは歴史が進み、現代に至って明らかとなる。
もう一度整理しよう。アンゴルモアの大王とは、アーガマとモンゴルの複合文字で、釈迦を示すとわが師の著書「1999年カルマと霊障からの脱出」(平河出版)に記されている。
その後、わが師は1981年にインスピレーションによりインドへ旅立たれた。そして仏跡参拝の最後の日、仏陀終焉の地クシナガラで、仏陀が18年説法されたという祇園精舎サヘトマヘートのミラクルの池において、強烈なバイブレーションを受けられた。
ミラクルの池とは仏陀が空中浮揚という超能力を発揮され、池を浮揚しながら上半身を火に、下半身を水に変えられた地だったのである。
白銀に満ちたバイブレーションは仏陀からのものであった。それはこの仏陀の悟りを日本に移せよとの霊感である。この一大異変により、わが師はアンゴルモアの大王が復活されれば、恐怖の大王に対抗する人類救済の善なる大王の復活で、破滅はあり得ないと考えられた。
その証明は1999年3月にインド政府からの招聘で、聖地において大柴燈護摩供を修して欲しいとの願いを叶えられたとき、強烈なバイブレーションのなか、護摩の火の中で仏陀が現れたことにより仏陀の復活祭となった。
釈迦の教えはカルマからの解脱を説く。それは破滅のカルマも同じである。しかし今、このカルマは地球規模で拡大し、国家間の争い、経済の破綻、そして自然災害の多発などにより、いつ破滅に至るか余談を許さない状況にある。
2019/03/31(日)
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■誕生日が来たR
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時代は進み、カメラはデジタルの時代に移る。そして娘がハイテクに強く、ホームページを作って写真を公開したらというので、喜んで「私の風景写真」と題したHPを作ってもらった。
平成12年5月のことであった。そして今、19年目になるが、写真だけでは飽き足らず、撮影日記や自分の人生観などをエッセイとして添付しようと思う。
次男が大阪でホノカ社という小さな出版社を経営しているので、サイトはお任せし、私は毎日書き込むだけである。それがこの「風景写真よもやま話」である。
写真撮影の話題だけでは限られるので、私は次第に世の中の出来事を話題にするようになった。その根幹を成すものは、わが師との出会いである。
私は若いときから興味のあった前世や来世、輪廻転生などについて知りたいと思って、いろんなスペシャルな本を集めている最中に、桐山靖雄という宗教家の著書に出会う。
それは書店で見た「1999年カルマと霊障からの脱出」(平河出版)だった。当事はノストラダムスの未来予言が盛んに論議され、あたかも21世紀は来ないような言動が多かったのである。
わが師はこれをインスピレーションと霊感で解明された。そしてこの予言の意味を詳しく解説される。
2019/03/30(土)
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■誕生日が来たQ
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出向先は発電所のメンテナンスを行う工事会社だった。ここでは多くの電力マンが出向や嘱託で働いていた。そして私は電力会社が発注する工事の設計や予算を計画する部署の課長として赴任する。
この課は設計管理と称し、すべてが電力から来た社員で構成され、発電所の定期点検が始まると現場責任者として工事を統括する。火力発電所の建設と正反対の発注者から受注者になったのである。
3県に立地された発電所は、2年に一度運転を停めて定期点検を行う。そのときは下請け十数社のトップとして工事の陣頭指揮をとった。
約4年を努めて私は60歳となり定年を迎える。以後3年間を嘱託として働き、63歳でサラリーマン生活を終えた。思えば18歳で入社し、42年間の長いサラリーマン生活であったが、無事の努めに感謝あるのみである。
以上が私が歩んだ仕事での思い出だが、私は50歳半ばでふと思う。それは定年になり暇な時間が多くなれば何をしようかとの自問だった。
そのときに浮かんだのが風景写真である。それは一人で遊べ、記録に残り、できれば写真クラブに入り仲間と歓談できるからである。
写真を始めたのは50歳の時で、カメラはキャノンのEOS5だった。当事はまだフイルムの時代で、35mmフイルムでは飽き足らず、より鮮明な写真が撮れる中判カメラに移行する。
そして窓から見える立山連峰やふるさとの山野、富山湾の風景など、景勝地を休日ごとに訪ねて記録に納めた。その後、老人クラブのような写真クラブに入会し、毎年、定期的に富山市の県民会館で写真展を開催した。
写したフイルムは200本を下らない。また全紙や半切に伸ばした写真も50枚を下らない。そして自分の傑作と思う写真をこのホームページに載せているのである。
2019/03/29(金)
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■誕生日が来たP
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私はかしこまっていた。監督署からどんな叱責がでるか、気が気でなかったのである。
「一体、何をやっているんですか! 法を犯せば罰はあたりまえです。送検しますよ!」
私は観念して、刑事罰を受けて犯罪者となる者が出ると思う。しかし、月日が過ぎても一向に監督署からの命令はなかった。それは法を犯したが、被害者が重症で済み、死亡しなかったからであろうか。私はつくづく神仏に感謝した。
このように災害はいつ、どこで、どんな状態で起きるか分からない。会社では工事が始まる前から、安全な仕事をするための方策として「社長ミーティング」を行い、発注者としての準備の万端を計画していた。
その対策を作成するのに私は腐心する。安全はどんな対策を立てても、それを守らねば事故となり、また完全な対策などあり得ない。
何度も試行錯誤を繰り返し、所長の承認を得て本社の担当部門と協議する。その過程でいろんな苦労があった。対策を立てるのに所長や社員から多くの注文が出て案がまとまらない。
やっと案がまとまれば、今度は本社での審査で否と判断される。私は完全に上下の間に挟まれ、心魂極まってしまう。そして身体の調子が悪くなってきた。
不安感が強く出て、身体が疲労感で歩くのもやっとになる。たまらず病院へ駆け込み診察を受ける。結果は「不安神経症」と判断された。
心を落ち着ける薬をもらうと収まるが、根治することはなかった。それは災害の発生と言うストレスから逃れられなかったからである。 しかし、この病気が出ても会社を休んだことは一度もなかった。災害の撲滅という強い使命感が私を奮い立たせたのである。
その後も災害は毎月のように発生したが、どれも軽微なもので死亡したり障害など後遺症の残る作業員はいなかった。
ここで私の役目は終わった。平成6年の7月、完成真近い発電所を後に、私は関連会社へ出向となる。
2019/03/28(木)
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■誕生日が来たO
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平成3年10月1日、3年の歳月をかけて敦賀火力発電所は完成した。蒸気タービンがうなり、発電機を回す。すべての機器が稼動し、50万kwの電力を発電していた。
私はボイラやタービン、それに付随した主要な機器を統括する機械課の課長職を無事に終え、その年の12月に新地点である石川県の七尾市へ転勤となる。
この七尾市でも敦賀と同じように海面を埋め立て、出力50万kwの石炭火力発電所を計画していた。今回は機械部分を離れ、工務課長として、工事の安全を指揮する要職についたのである。
このような脇役の仕事は初めてで、工事の着工前から綿密な安全対策の検討を行う。工事の安全は数式で決まるものではない。それはそれぞれの安全意識と運であった。
実は機器の建設前の海面埋め立て工事で、海上作業で1名の死者が出ていた。私はそれを知り、死者がかって私の部下だったB君の叔父だと分かり、わが師にお願いして解脱の供養をしてあげた。
それと同時に発電所の敷地全体を清め、機器が順調に建設されることを祈願し、休日を利用しわが師の仲間を連れて現地の浄霊を自費で行う。
浄霊とは仏陀の成仏法を持ってその地を清め、魔物や不測の災害、事故などが起きないように祈願するものである。いわば起工式にあたる清めの仏事である。
土地造成工事も終わり、いよいよ機器の据付工事が始まる。基礎杭を打ち、200mの煙突や70mのボイラ塔などの工事が、巨大なクレーンで組み立てられる。
一日に2000人の労働者が働く現場は、朝の8時半から始まる。事務所前で朝礼を行い、私は一日の工事の安全を訓示する。
しかし、人身事故は毎月のように起きた。それは墜落やはさまれ、転倒などであり軽微なものであったが、ある日、高さ8mの吊り足場を作成中に作業員が墜落した。
かなりの重症で病院に運ばれたが、命には支障なかった。ここで問題が起きる。それはこの作業員が18歳未満だったことである。労働基準法では18歳未満の者は高さ2m以上での足場組みは禁止されている。
元請会社は十数社、その傘下の下請け会社は30社以上に上るが、私は発注者として作業員の名簿を頂いていても年齢までは記載されていなかった。
そして私は七尾市の労働基準監督署から出頭命令を受ける。
2019/03/27(水)
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■誕生日が来たN
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グアムのゴルフ場は低い谷あいのコースで、平地が少なくて高低差の多い難コースだった。全員で3チームをつくり、キャディをつけずにゲームを始める。
私はA君と一緒で初めてのプレイだった。第二ラウンドの中盤あたりだった。あまり上手とはいえないA君の腕前を内心案じながら、4ホール目を打ち始める。
スコア5の少し曲がったコースで、ホールのあたりは見えなかった。あまり調子の良くないA君が最後に打つ。素晴らしいショットだった。今までの最高のショットで、球の先は見えなかった。
しばらくすると、カートに乗った男が駆けつけてきた。到着一番、すごい剣幕で球を打ったのは誰かと聞く。A君が前に出ると大声でわめきちらした。
「オイ! お前か、今打ったのは! ここを見ろ! 球が当ったぞ!」
見ると首のうしろが赤く腫れて、ボールの跡のようだ。それはナイスショットがバウンドして首筋に当ったものであった。
男は日本人で二人の彼女を連れていた。どうやらヤクザのチンピラらしい。そしてこのように言う。
「この落とし前はどうしてくれる! ゲームが済んだらクラブハウスで待っているからすぐに来い!」
A君も私も顔色を失う。たまたま打った球が、ナイスショットで200ヤード以上を飛んだらしい。ボールは左に曲がり見えなかったが、このチンピラにどう決着をつけるかが心配で、以後のプレーはゴルフにならなかった。
さて、クラブハウスに着いたA君の運命やいかに! どこかに消えたA君が戻ってきた。少し安堵の様子で私に話す。
「チンピラは許してくれたよ。二度とこんなことをするなと念を押されたけどね。」
私はハプニング後、プレーしながら神仏に祈り続ける。「どうか彼を許してやってほしいと!」
その結果かどうか分からないが、これで一件落着、この事件より私は海外旅行の熱が冷め、以後現在まで一度も外国の地を踏んでいない。
それに比べ家内は海外旅行病がひどく、友達と今まで24回にわたり数十カ国を旅してきた。まだ行っていないのは南極や北極、アフリカのサバンナやアマゾンのジャングルくらいであろうか。
その家内もまだ外国に意欲を燃やしている。しかし今は旅費が当時の倍程度になり、年金生活で行くに行けなくなった。
人生は「山あり谷あり」だが、あなたにもビッグニュースはないであろうか?
2019/03/26(火)
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■誕生日が来たM
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その後も火力発電所は新地点でいくつも建設された。私は本社で福井県敦賀市で建設される、出力50万kwの石炭火力の計画を行う。 そして計画も固まり、現地へ単身赴任をしたのである。
敦賀港の入り口にある広大な敷地の造成が始まった。海面を埋め立て巨大な石炭置き場ができる。発電敷地は狭いので、集塵器や脱硫装置は、50mの高台に作られた。
ここでは機械課の課長に昇進し、12人の部下を持つ要職を拝命する。私の一番心配したのは工事中の人身事故で、起きれば大変なことになる。
私はすでにわが師にご縁を頂いていたので、朝起きると毎日、神仏に祈った。今日一日が無事でありますようにと。おかげさまで私の部署では災害の発生はなく、延べ100万人の労働者が働いたのに数件の軽い負傷事故だけで終わった。
ひとつ思い出に残るのは、私の部下が斜面の煙道の基礎にクラックが入り、倒壊の危機があることを発見したことであった。
45度の傾斜で高台へ導く、直系8mの煙道を支える基礎が割れれば大事故になる。すぐにメーカーに伝え、下から煙道を支える工事が始まった。この発見は発電所の運命を決する大発見であった。
時代は平成となり、工事の完成が近づくと、私は部下を連れて始めての海外旅行を計画する。それはグアムで、みんなでゴルフをしようと言うものであった。
名古屋空港からグアムへ到着し、ホテルに泊まって海水浴を行う。しかし、遠浅の浜辺はサンゴのかけらばかりで、足が痛く泳ぐ気にもならなかった。
グアムでは太平洋戦争の激戦地をバスで回り、横井庄一さんが隠れていた竪穴を見たり、伊藤・皆川さんが隠れていた洞窟を見学する。
洞窟の前方に太平洋が開け、隠れ住む将兵の皆さんがどんな気持ちで故郷を思われ過ごされたがで心が痛む。
夜は船上でのディナーショーだった。黒人の歌手が席へ来て、耳元にキスをする。夜景が美しく、最高の憩いであった。しかし、次のゴルフでは思わぬアクシデントがあり、二度と海外旅行はするまいと思った。
そのアクシデントは明日の話題としよう。
2019/03/25(月)
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■誕生日が来たL
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職場は若い社員であふれていた。だから仕事だけでなく、余暇をいろんなサークルで楽しんだのである。私はトランペットを持っていたので、もう一人の後輩と一緒に楽団を作ることにする。
職場ではバイオリンの得意な先輩もいて、興味のある者を誘い軽音楽の楽団を作った。その楽器はクラリネットやトロンボーン、サックスなどの金管楽器が主で、会社の助けもあって高価な楽器を購入してもらう。
楽団の名は「ザ・オンチーズ」と決まった。こうしていびつな楽団が誕生し、次第にブラスバンド化して、会社の運動会では行進曲を奏でるまでに成長した。
秋には職場の文化祭があり、芸達者な社員の演技やお笑いの劇が面白かった。私は得意のトランペットの独奏で場を盛り上げたものである。
その後2年半で1号機が完成し、ここでは最終的に25万kwの4号機までを建設した。当時は重油の硫黄分が2%近くで亜硫酸ガスが発生で、大きな公害の元を作っていたのである。
公害防止機器は機械式の集塵器しかなく、効率的には集塵できず煙道が腐食し、煙が漏れる被害も発生した。
世は公害のオンパレードであった。四日市や川崎のばい煙公害や阿賀野川や水俣の水銀公害、そして富山のカドミューム公害がピークとなる。
世論の高まりで次々と公害防止機器が開発された。発電所では電気による集塵装置や窒素ガスを除去する脱硝装置、また亜硫酸ガスを除去する脱硫装置が開発されクリーンなガスの排出が可能となる。
それは急激な高度成長への過程で生じた負の遺産で、以後、公害問題が大きな社会問題となり、多大な経費をかけて防止に取り組むこととなる。
2019/03/24(日)
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■誕生日が来たK
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移動時期が来て私は転勤をお願いする。今度は富山市の海辺、草島という平地であった。おりしも日本が高度成長へ向かって突進しだした時期で、水力発電所しかなかった時代から慢性的な電力不足になり、重油を燃料とする火力発電所の建設が不可欠となったのである。
当事の石油製品は安く、特に硫黄分が多く含まれる重油により、大規模な電力を発電する設備が導入されることになった。
火力発電所はボイラーで水を沸騰させ蒸気をつくる。その高温高圧の蒸気でタービンを回し発電する。仕事の終わった蒸気は腹水器で冷やし再利用する循環型のシステムである。
この発電設備は機械がメインで、まさしく私が学んできた科目でもあった。昭和38年3月、私は水力発電所の山を降りて町に出る。そして建設所の機械課に配属されて、火力の建設と保守を担当し、各地を移動しながら定年を迎えることになる。
私が着任したときはすでにボイラーやタービン建屋の杭打ちが行われていた。ボイラーがIHI(石川島播磨重工業),タービンが東芝であった。
仕事は楽しかった。高校で学んだ科目はあまり役に立たなかったが、自分がやりたい仕事であり大満足だったのである。
「新風は火力から」のスローガンのもと、日に日に機械の組み立てが目立ってくる。ボイラーの組み立てには大型の重機やクレーンが使用され、丸太を組んで作った足場を地下足袋とキャハンを履いて、40mの高さを登ったものである。
2019/03/23(土)
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■誕生日が来たJ
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鉱山の町は2年半で終わり、次の勤務地は田舎に近い小矢部川の下流にある、出力900kwの小さな発電所だった。私は親が老いるのを見て、できるだけ故郷に近い勤務地を希望したのである。
大正時代に建設された発電所は、アメリカのウェスチングハウス社製で、300kwと600kwの2台の水車発電機を備えていた。横型で、今で思えばまるで大型のモーターみたいなものであった。
2人で3交代の勤務は暇で、発電所の脇にはウグイや岩魚が沢山吊れた。夏は潜ってよく捕まえたものである。
ここでも横変死の因縁が出て、あるとき潜って岩の下に隠れた岩魚をつかもうと、右手を差し入れたときだった。手が岩の隙間に引っかかって抜けなくなる。
約1,2分も必死で抜こうとするが、息が切れる寸前に抜けて手に傷を負ってしまった。因縁とは恐ろしいものである。そんなこともあり、私は20年後に仏道修行で必死にカルマの解消に向かって励むことになる。
山の斜面に数個の民家が点在し、発電所の合宿所は集落の若者との社交の場だった。休みのたびに尋ねてきて、私の部屋で酒を飲んだ。
ここの住人となった私は、毎年行われる郡の体育大会に3000m競走の選手として出場する。しかし結果は燦々たるものだった。毎日よく練習していたのに、本番では足が動かなくなり棄権したのである。
私は楽しみの一つとして、中古のバイクを買った。ホンダの150CCで、このバイクで田舎へは1時間程度で行けるようになる。
寂しい山の生活は暇で、よく資格取得の勉強した。電検3種や大気汚染や水質汚濁に関する資格も取得し、寂しさを補う。そして約2年が過ぎ、次なる職場が待っていた。
それは日本が高度成長への道を加速しだした時期で、私も大きく飛躍するチャンスを得た時でもあった。
2019/03/22(金)
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■誕生日が来たI
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ここで私は人生の一大危機を体験する。それは高圧線に近づき、よもや感電しかかったことである。発電所は定期的に水車を停めて総点検を行う。
水車発電機は2台あり、落差80m、水量は20㎥/Sで、水門を閉め、機械類や電気設備全体を調査、手入れするのであるが、発電機で発生した電力を遮断する遮断器を点検しようと、誤って運転中の1号機を触ろうとしたのである。
遮断器の下部は床の下にあり、腹ばいになってもぐる。そして丸裸の銅でできた板状の導線に触ろうとした時だった。20cmほど近づいてハッ!と気づく。
運転中の遮断器を停止中の遮断器と勘違いしたもので、触れば11000Vの電圧で即死である。普通は危険表示をするのだが、床下だったため表示を怠っていた。
感電しなかったのは、天の采配としか思えない。それは40代後半になってわが師にご縁をいただいて、自分が生まれながらに持つ因縁(カルマ)を霊視していただいて分かったことである。
私には前世から持ち越した運命的な因縁がいくつもあり、そのうちの一つが「肉体障害の因縁強くして横変死の恐れあり」というのがあった。
その後の人生で私は2度、死に掛かることになる。一つは40代前半のとき、母を乗せて田舎への帰りに雪道の下り坂のカーブでスリップし、下から上がってきた車とあわや正面衝突しかけた時と、50代後半にカメラに夢中となり、三脚を伸ばして肩にかけ、立山の弥陀ヶ原から八郎坂を下っていたときだった。
岩場を降りるときにスリップし、あわや500m下の称名滝の滝つぼへ転落しそうになったのである。倒れた私は足がガケからはずれ、片手で草の根をつかんでやっと滑落を免れた。この地点は1ケ月前にも滑落者がいて、死亡していた。
肉体障害の因縁は現実のものとなり、10年前に左手に荷物を、右手に一升ビンの酒を持ち、玄関に入ろうとしたとき、つまずいて転びビンが粉々に割れて、右手の薬指の第二関節を動かす腱を切って指が曲がらなくなった。
あまり使わない指だから、生活には支障ないが、わが師の霊視どおりに極軽度の障害者になったのである。
2019/03/21(木)
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■誕生日が来たH
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発電所の勤務は平凡なものだった。それは操作室で計器を監視し、給電指令所からの支持を待つだけだったからである。
鉱山の町、神岡は活気にあふれていた。小さな町だが、色気のあるバーが100軒をくだらなかった。だからよく歓楽街に出かけ、飲み歩いたものである。
鉱山には若い美人も多くいた。いろんなクラブがあり、私は中学生のときトランペットを吹いていたので、美人に誘われ軽音楽の楽団に入団してみたが、レベルが違いすぎてやめてしまった。それは高校でブラスバンド部がなかったためである。
合宿所ではマージャンが盛んだったが、勝負ことがあまり好きでなかった私には、夜が一番退屈なときであった。しかし、冬になると近くのスキー場へ出かけ、思いっきり滑ったことを思い出す。
唯一の思い出は、神岡鉱山と縁が深かったため、鉱山から招待を受け、工場を見学したときがあった。地下800mから掘り出した鉱石を粉砕し、精錬する。ここではゴールドも電気分解で取り出し、その鮮やかな黄金色の金が見事だった。
この鉱山は明治時代から続いたため、精錬中に出る亜硫酸ガスで周囲の山は禿山となっていた。そして精錬後の廃鉱にカドミュームが含まれていたため、それが漏れて川に流れ「イタイイタイ病」という公害病を発生する。
神通川から流れたカドミュームは、富山県の流域で田畑の用水に使用したため、骨がボロボロになり、折れたり痛くてしょうがないいわゆる三大公害病を引き起こしたのである。
帰郷は便利だった。交通はデイゼル軌道車が通り、国道41号線ではバスが定期運行していた。そのため半日で帰郷できたのである。
2019/03/20(水)
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■誕生日が来たG
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就職時期が来て、私は関西電力へ願書を提出する準備をする。そのときは関西電力と縁のある人の推薦状が必要だった。私にはそんな人がいないので、集落の知人に頼んで推薦してもらった。
そして願書を持って富山の支社へ向かう。結果は意外なものだった。それは合格すれば水力発電所ではなく、大阪の火力発電所勤務となるのだった。
機械課卒では火力発電所が適任で、親元を遠く離れてふるさととは縁が切れることになる。私は苦渋の決断をする。老いた祖父母や父母を置いては行けないからである。当事は長男が家業を継ぎ、親の面倒を見るのが常識だった。
私の希望はついに消えると思ったが、あきらめきれなかった。すると思わぬ幸運がやってきた。それはが学校長の推薦で、地元の北陸電力を受験することができることになったからである。
成績の良かった私は、幸運にも受験資格を得て試験に臨む。それは受験生37人のうち、4人の合格者だけで9倍の倍率だった。
そして私は4人のうちに入り、合格通知を受ける。私は満足だった。入社後半年を養成所で基礎を学び、初任地は岐阜県の神岡であった。ここは山の中の鉱山の町で知られ、亜鉛を採取し町は活気にあふれていた。
町は富山県一の大河、神通川の支流、高原川が流れ、その脇に出力31,600kwの水力発電所があり、その発電所勤務となる。穂高岳を源流とする高原川は、戦後4箇所で発電所が建設されて、私のような勤務員も多く在籍していたのである。
富山から軌道車で1時間半の距離にある町は便利で、田舎への時間も半日で行けた。この神通川系には会社の発電所が多く建設され、会社のドル箱となっていたのである。
勤務は2人が三交代で務め、地元の年配者が多く、私は厳しく仕事を教わる。宿舎は800mほど離れた合宿所で、子ずれの叔母さんと若いベッピンさんの二人が住み込みで食事を作ってくれた。
ここで私は2年半の間、運転勤務を行ったのである。努めて2年、私は初めて背広を買い、成人式に臨む。
2019/03/19(火)
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■誕生日が来たF
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学校は2クラスで、90人が学んでいた。私は将来のエンジニアを目指し、何よりも地元の関西電力に入社し、水力発電所に勤務することが夢であった。
私はよく勉強した。それは下宿したため、家でも時間がたっぷりあったからである。クラブ活動は最初柔道部を選んだが、今でも何でこんな柔道をやろうと思ったか理解できない。
柔道は始めてでのことであり、投げられっぱなしで、半年でやめてしまった。次に入部したのがスキー部である。スキーは田舎で毎日のように滑っていたから楽しかった。
スキーはノルデックで夏はマラソン、冬は遠く離れたスキー場まで出かけたが、年に一度、県の体育大会があった。私も選手として参加し、宇奈月温泉に宿泊する。
しかし、前日に黒部川上流部でなだれが発生し、関西電力の発電所建設の宿舎が流されて、十数人が犠牲になった。そのため急遽、大会は中止されたのである。
競技らしい競技もなく私のクラブ活動は終わったが、一番の思い出は辛い冬休みの帰郷であった。それは冬の豪雪が半端なものでなく、700mの峠は深い雪に埋もれ、新雪は腰まで沈んだ。
ふもとの町に一泊し、朝から40kmの山道を登り下りするのである。峠道は数人程度の人しか通わず、体力が尽きて歩行が困難となり、あわや遭難しかけたこともある。
暗くなり眼下に集落の灯が見えたとき、やっとたどり着いた安堵感を今も忘れない。心配した家族が迎えに来てくれたが、あの辛さは生涯の思い出となった。
このようにして3年の期間が終わりに近づいた時、就職試験の季節がやってきた。さて、私の関西電力への受験はどんな結末を迎えたことであろうか。
明日をお楽しみに!
2019/03/18(月)
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■誕生日が来たE
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さて、ふるさとの紹介は長くなった。ここらで私の人生を振り返ろう。小学・中学といろんなことがあったが、その主なものをあげると、父が合掌造りの家を解体して新たな家を新築したことであろう。昭和29年の暮れのことである。
200年続いたと思われる合掌の建物は、すべて豆腐屋の焚き木になった。新築した木材はすべて自家製で、近くや遠くの山から切り出したものだった。
大黒柱のケヤキ材は新築祝いに親戚から寄進された。総数90坪の家は天井板など装飾されず、空建ちのスカスカだったが、2階すべてが養蚕で埋められ、建築費は当事のお金で70万円だった。
今のお金に直せばその何倍か分からないが、ほとんど貯金もない我が家は、よくも新築できたものである。
そして私は父の勧めにより工業高校への進学を決意する。山の分校は町から数人の教員が着任し、教員住宅に住んでいた。私たち受験生は毎晩、その先生のお宅にお邪魔し受験勉強を行う。
全員で17人のうち、男が3人、女が4人の7人が町の高校を受験し、全員が合格したのである。私はふもとの町から1時間汽車に乗って着いた高岡市の工業高校へ合格したが、その下宿した家は知人だった。
戦後の物資不足の時代、高岡市から来た金属回収業者を泊めていた関係から、その人のお宅で下宿生活を送る。当事は金属類が不足し、このような回収業者が山奥まで押し寄せていたのである。
私は1kmほど離れた関西電力の小原発電所の工事現場だった跡地へ向かう。ここには修理工場があり、鉄くずや銅線のくずが落ちていた。それを探してこの回収業者へ売り、小遣いにしていたのである。
高校に合格した課は機械課で、エピソードとして合格の通知をハガキで受け取ったが、発表当時、祖父と一緒に学校へ見に行ったが、張り出された合格者の欄には私の名はなかった。一瞬、びっくりして学校に尋ねる。すると係りの人が出てきて、不記載だったことが分かり学校側のミスであった。
とんだハプニングだったが、学校から1km離れた知人の家で寄宿生活が始まる。2階の四畳半の部屋が私の住まいで、食事付きで月4千円の部屋代だった。お金はすべて母が出してくれて、3年間の高校生活が始まったのである。
2019/03/17(日)
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■誕生日が来たD
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私はわが師の著書によりご縁を頂いて30有余年、常に「人間とは何者か、人はどこから来てどこへ往くのか」を探求してきた。その終着点が仏教の悟りであった。
仏教と言ってもいろんな宗派があり、何が真の教えか分からない。私はその答えをわが師に見出したのである。わが師はたぐいまれな霊力を持たれ、人が前世から持ち込んだ因縁(カルマ)を霊視し、そのカルマからの脱却を釈迦の成仏法から説かれた。
釈迦はカルマからの脱却を目指し、七科三十七道品(七つのシステムと三十七のカリキュラム)という成仏法のシステムを残された。
その詳細をアーガマ(阿含経)に求め、阿含宗という教団を設立されたのである。それは先祖の悪徳を解脱させるなどの供養をし、自分の悪しきカルマからの脱却を目指すものである。
今の世は自殺のオンパレードだ。先日も小学6年生の女の子が二人、アパートから飛び降り自殺した。この日本では年間2万人を越える人が自殺している。
自殺は宇宙の法則として禁止されている。それは人の本体が魂であり、その魂を清め、進化向上させるのが創造主の意思であり、この世に生まれた目的だからである。
おさよは若くして自分の命を絶った。そこで私は釈迦の成仏法を修した「お塔婆」で毎月の供養を始めたのである。一体500円の供養料で、おさよの魂を癒す供養は4年間も続いた。
するとある日、思わぬ人に出会う。家から1kmほど離れた食品スーパーで、昔の同級生だったF子さんにばったり出会ったのである。
F子さんは私が小学6年生のときに、東京からおさよが住んでいた小原集落の親戚の家に引越ししてきた少女だった。
そのかわいい、垢抜けした都会育ちの彼女に一目でほれる。それは中学を卒業するまで続いた。彼女は町の女子高へ、私は遠く離れた高岡市の工業高校へ進学して二度と再会することはなかった。
卒業後、何度も同級会を催したが、彼女は一度も姿を見せなかった。それが何と! 40年ぶりにスーパーで遭ったのである。富山市に住んでいることは人伝に聞いていたが、まさかこんなところで会うとは夢にも思わなかった。
彼女は息子と一緒だったので、数分の会話で分かれたが、私はこの出会いでおさよが私の意を汲んで成仏したと感じた。
彼女は私の初恋の人であった。それはおさよと吉間のような関係で、この運命的な出会いはおさよが彼女を通じて、私に感謝の念を送ってくれたものであろう。
この件があって以来、私は五箇山に流された流刑人の供養を、お彼岸やお盆に弔っているのである。
仏陀の成仏法はカルマを切る霊力を持つ。私も自分や家族の現世や来世を願い、わが師にお願いして先祖の供養を欠かさない。
わが師は成仏するために阿含宗という教団を創立されたが、1986年にスリランカのジャヤワルデネ大統領より真正仏舎利(インドのブッダガヤで発掘された真の釈迦の遺骨)を拝受され、すべての仏教宗派を統合した完全仏教となった。
おさよと吉間は私に来世があることを教えてくれた。私も今生で善行を積み、来世はより進化した魂を持つ人間に生まれ変わりたいものである。
過去何度も書くように、この世は魂を進化向上させる学校であり、苦しみと悲しみの連鎖により自覚を促す星であるが、その因縁解脱の仕組みを知る人はまだ少ない。
それは昨日、ニュージランドのクライストチャーチで起きた無差別テロで、横変死したり傷を負った人たちのことからも理解できないであろうか。
2019/03/16(土)
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■誕生日が来たC
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私の生家から500mほど上流に小原集落があって、ここは傾斜地で十数戸の民家が建っているが、このすぐ下流に流刑者が入る平小屋があった。
そこに加賀藩の遊女だった”おさよ”が流されてきたのである。おさよは能登の輪島近くの出で、わずか12,3歳のころ、親の口減らしで輪島のソーメン屋へ5年間の年季奉公に出された。
おさよが18歳のとき、人買いのあまい口車に乗って金沢の曖昧屋であったいずみや長右エ門へ身売りされる。いずみや長右エ門はこの界隈きってのならず者で、加賀藩士高崎半九朗らとぐるになって、か弱い遊女らを酷使し、あくどい金儲けをしていた。
その悪事がばれて加賀藩の知るところとなり、半九朗ら武士4人が五箇山へ流罪となった。そしてこの悪事に加担した遊女ら19人も能登に流されたのである。しかし、おさよだけは輪島の出であったため、流刑の意味がないとして五箇山へ転送されたのだった。
小原集落の平小屋に着いたおさよは、若いベッピンさんで、芸や歌がうまかったため、多くの踊りや歌を村民に教え、その一つが”おさよ節”として今も歌われている。
小原の刑務所に着いたおさよは、出入りが自由だったため、すぐに集落の若い牢番であった吉間と仲良くなる。そして毎晩逢瀬を繰り替えし、ついに吉間の子を身ごもるのである。
罪人が牢番と仲良くなるとは論外である。実際、五箇山の祖山地区へ流された青木治太夫は、村の娘と関係したため元禄8年(1695)にはね首に処せられ、相手の娘は耳と鼻を削がれて、その後80歳まで存命したと記録にある。
このとき、おさよは自分の過ちを嘆き、ついに近くの庄川へ身投げして、短い一生を終えた。現在、この身投げした場所には「おさよ投身の地」との標識が立っている。
また牢番の吉間も自分の過ちを悔いて、おさよの供養のため全国行脚の旅に出たというが、その後の詳細は分からない。
さて、話は変わるが、私は50歳半ばで定年後の遊びとして風景写真を撮りはじめた。高価な写真機材を購入し、主に富山県の海や滝、河川に山岳など日曜日ごとに出かけていたのである。
ある春のこと、私はおさよが身投げした地点の上流100mほどのところに谷川が流れ込むところがあり、そこに落差10mほどの滝があることを思い出した。
その名は「銚子滝」で、銚子で酒を注ぐような風景を撮りたくて出かけたのだった。春の水量が多いときだけの滝で、スローシャッターで数枚を撮る。
私はこの写真を現像してもらい、フイルムを見てびっくりする。何と! 写真にはおさよと吉間が写っているではないか!
おさよが両手での袂(たもと)を顔に当て、嘆き悲しんでいる。そして悲しむおさよを見るが如く、吉間の姿も上にあった。おさよの周辺には、いくつもの水子と思われる姿もあり、これはおさよと吉間が出現した霊写真だと確信する。
この写真は私のHPで紹介しているので是非見て欲しい。私のHPへ移ったら、「写真のコーナー」をクリックしていただこう。そして滝2をクリックすれば、この霊写真が一番先に写っている。
私のHPを知らない方は、ヤフーで「私の風景写真」と検索すればすぐに出てきます。
さて、この写真を見た私はおさよと吉間の供養をしようと思う。その方法は明日の日記で書くが、またまた不思議なことが起こったのである。
2019/03/15(金)
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■誕生日が来たB
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五箇山の家屋は合掌集落である。太い杉の丸太を合掌のように組み合わせ、縄でしばり屋根を作る。その屋根を天然のカヤで覆い、冬の保温と豪雪に耐えるのである。
釘一本使用しない家は台風で大きく揺れた。戦後の大型台風は各地で甚大な被害を与えたが、合掌集落では何の被害もなかった。
強風が吹くたびに音を立てて家が動いたが、倒れることはなかった。私の家は裏がブナの原生林で、前を小川(用水)が流れ、谷川から岩魚が来たこともある。
戦後、多くの合掌造りの家は解体し現代風に改築されたが、唯一集落として残るのが平村の相倉集落と上平村の菅沼集落である。この二箇所は平成7年に世界遺産に指定され、岐阜県の白川郷と共に今は多くの観光客でにぎわっている。
さて、この五箇山は昔、加賀藩の流刑地であった。それは庄川をはさんだ深い渓谷を形成し、町との行き来が容易ではなかったからである。
わずかな平地に集落が点在し、川を挟んだ集落の行き来は藤の弦で編んだ親綱に篭を吊るし、自分で引いて渡ったのである。
流刑が始まったのは寛文7年(1667)で、その後決定的に藩の流刑地となったのは元禄3年(1690)であった。流刑地は庄川の右岸に限られて、各集落に作られた。加賀藩は流刑者の逃亡を防ぐために、庄川には橋を作らせず、篭の渡ししか許さなかった。
流刑者が住む家は軽犯罪者が寝起きする「平小屋」と、重犯罪人が入る御縮小屋(おしまり小屋)の二種類があり、平小屋は出入りが自由であり、御縮小屋は一人が入る独房であった。
五箇山へ流された罪人は元禄3年から嘉永初年(1848)までに159人で、以後明治維新までに200人近い数になると思われる。罪人の多くは悲惨な運命を辿り、57年間も流刑され病気で死んだ者や舌を噛み切って自殺したり、窓を壊して逃亡しはね首になったものなど多種多様であった。
さて、ここで書かねばならない悲劇と、私と深く関わる流刑者がいる。そのあらましを明日の日記としよう。
2019/03/14(木)
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■誕生日が来たA
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さて、ここで越中五箇山について紹介しよう。五箇山の名は富山県第二の大河、庄川に流れこむ五つの大谷を総称して付けられた名で、その庄川に沿って平村・上平村、そして支流の利賀川に沿った利賀村の三つの村をまとめて五箇山と称した。
そして今は町村合併で下流の町と合併し、広大な南砺市となった。私のふるさとは岐阜県と境にある上平村で、平と名がつくように昔、平家の落人が逃れてきた地でもあった。
周囲を1000m以上の山に囲まれ、深い渓谷を形成する庄川の両岸に、猫の額のような傾斜地に小さな集落が点在していた。段々畑で野菜を栽培し、谷川の水を引いて稲を育て、自給自足の生活だったが、こんな奥地でも畑を開墾すると縄文式土器の破片や石器が見つかった。
また竪穴式の住居跡もあり、2000年以前から縄文人が住んでいたのである。それは狩猟生活に適した土地で、山の恵みも多かったためであろうか。
このように隔絶した地は町との交流が少なく、700mの峠を三つも越えて半日がかりで町に出たものである。牛馬の通るような道しかなかった地も、今では庄川沿いに国道156号線ができ、また峠道には国道304号線も開通した。
峠道は私がまだ中学時代のころで、現在は東海北陸道が完成し、東海地方との重要な交通網に発展した。
豪雪地帯だった五箇山は毎年3mの雪が積もった。交通は困難を極め、特に郵便物は逓送隊と呼ぶ約30人の村人が、隊列を組んで町から三つの峠を越えて運んだのである。
それにもう一つのルートは大正時代に建設された、当事は東洋一の大ダムであった小牧ダムを船で遡上し、途中から庄川沿いに歩いて家路についたのであった。
果物といえば各家庭に植えられた柿くらいのもので、小学生だったころの運動会で、母が買ってくれた長次郎梨の味は今も忘れない。だから果物といえば山野に生えた草の実や木の実をよく食べたものである。
木に実る黄色いイチゴに桑の実、秋にはクリやクルミ、そして小さな梨の実などが好物で、山野を駆け巡ってよく採取したものである。
ここで思い出すのが肉や魚類である。肉は野うさぎや山鳥、また熊の肉も食べたが、魚類は海のものが手に入らず、庄川でウグイを釣り、漬け針という手法でドジョウを餌に、うなぎを捕まえた。
夜行性のウナギは豊富にいて、夕方餌をつけた針を川に投げ込めば、朝には1mを肥えるウナギが数匹もかかっていた。貴重なうなぎが取れても料理ができない。 三枚に下ろすことができず、5cmほどに輪切りして火にかけるが、中まで火が通らず全部捨ててしまった。そのウナギはどこから来たのか分からないが、会社の同僚と我が家に泊まり、14匹を捕まえたこともある。
本番は谷川の岩魚であった。庄川にはいくつもの谷があり、そこには大物も多く、長さが30cmを越える大物を釣ったり捕まえたものである。しかし今ではこの魚場が全国に知れ渡り、多くの釣り人で今では15cm程度のものしかいなくなった。
その代わりに今は各地で岩魚の養殖場ができて、観光客に人気のメニューとなっているが、高価なのが難点である。
お盆には兄弟3人が集まり、よく岩魚をつかみに出かけた。夏の渇水期が格好の猟で大物をよく捕まえたが、今は老いて三男が出かけるのみである。
さて五箇山の魅力は何と言っても民謡であろう。平家の落人が残した麦屋節におさよ節、トイチンサ節など、観光客を楽しませている。
明日はこの五箇山に点在する合掌造りと、流刑の地であった詳細を記そう。
2019/03/13(水)
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■誕生日が来た@
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昭和15年3月12日、私は越中五箇山の小さな集落に生まれた。それは太平洋戦争が始まる9ケ月前で、水のみ百姓だった父母と祖父母が住む合掌造りの家だった。
今残る私の記憶は5歳ころで、昭和19年の美濃大地震で大地が大きく揺れたことを覚えている。そのときは母に連れられ斜面の畑で遊んでいた。
父は定職がなく、春からか秋は田畑を耕す百姓で、母は農協の事務員をしていた。祖父が牛を飼い、子供を生ませて家計の足しにしていたが、その草を刈るのが私の仕事だった。
子供は次男と三男の男3人で、歩いて数分の小学校へ通う。周囲を1000mの山に囲まれ、深い渓谷の庄川が流れて、わずかに開いた平地に30数戸の集落があった。
家は200年以上前に建てられた合掌造りで、春から夏にかけて蚕を営む。合掌造りは3階建てで、二階が蚕の飼育場だった。当事は養蚕が盛んで、冬は祖母が繭から生糸につむぐ仕事が日常だった。
学校が休みのときは、家族総出で蚕の餌である桑の葉をとりに出かけた。それは数キロも離れた谷川に沿って植えた桑畑で収穫するのである。細い林道を歩いて収穫した桑の葉を担ぐ。
夜の静かな時間、二階の蚕が桑の葉を食べる音が聞こえる。囲炉裏にくべた薪が燃えて、家族が暖をとる。冬はコタツで休むが、その熱源は木炭だった。
それは夏の仕事として、深い山に入り木炭を製造する。山の斜面を削り、そこに大きな釜を作るのである。そして周囲に生えた楢の木を伐採して、寸法を合わせて釜に入れる。
火をつけて約一週間、煙が青色になると釜の火口を粘土で固め、通気を遮断し釜がさめるまで放置する。蒸し焼きになった炭を釜から取り出し、それを規格とおりに切り俵に詰める。一度で重さが16kgの木炭が約80表製造できた。
炭焼きの現場は時には200mも登った山の中腹だったり、深い谷川の奥だったり、毎年場所を変えて約500俵を生産した。それらの炭はすべて担いで山から下ろしたのである。
それが終わると父は出稼ぎに行った。東京深川の土木工事だったが、よく休んだそうで稼いだお金はほとんど酒代に消えた。唯一の収入は母の農協務めの給金だった。
小学校高学年で私は”どもり”(吃音)をわずらう。それはどもりの真似をしていたら、自分が本当のどもりになってしまったのである。
それは30歳くらいまで続いた。自由に話せないつらさは今でも忘れない。だが私は勉学に励んだ。同級生がわずか17人の分校でも成績は1番で、父が電力会社へ就職するよう諭す。
それは集落の一人が近くの関西電力の小原発電所(出力45,000kw)に勤めており、その裕福な生活を見て将来の夢を語ったものである。私は父の勧めで電力会社を目標とする。(以下翌日)
2019/03/12(火)
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■東日本大震災
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2011年3月11日、東日本大震災が起きた。巨大地震による津波の恐怖は、遭った人しか分からない。映像で見た風景はこの世のものとは思えない風景であった。
津波ですべての財産をなくし、今も避難生活を余儀なくされている人は51,778人で、いつ安心して住める我が家が手に入るかわからない。
死者は18,430人で、関連死を含めれば2万2千余名に達する未曾有の天災であった。だがこれで終わりではない。東北の東側ではM7クラスの地震が起きる確率は30年で90%だというし、南海トラフの巨大地震も怖い。
あのスマトラ島沖大地震でも、津波で20万人もの人々が死亡した。この地球は太古の昔から災害のオンパレードである。日本の古文書である「竹内文書」では地球が誕生して以来、幾多の天変地異が起こり、そのたびに人類が絶滅したとある。
この文明は初めてではなく、数億年の昔から異性人が入植し、この地球で文明を起こしていたとある。その文明はゴンドワナ、レムリア、ムー、アトランティスなどであるが、そのいずれもが天変地異で滅亡した。
巨大な地震や極移動により大陸が沈み、または浮上して陸地や海はその都度姿を変えた。そして現在の文明である。この地球は水の豊富な豊かな星で、古来より多くの動植物や人類が住んできたが、今回も同じように天変地異を招くであろうと予測されている。
なぜであろうか。それは人類の総合意識がそうさせるのである。この地球を維持運営するために「地球心霊」が存在するという。
人々の意識が変化して、本来の霊的な進化よりも自分の私利私欲に走り、われ良しになるとき、地球心霊はその様を憂えて身震いされる。
それが天変地異となって、人類の住処が脅かされるのである。この世に偶然はあり得ない。すべての事象は必然である。だからなぜこの悲惨な天災に遭わねばならないかを深く考えなければならない。
文明が発展し、次なる次元へ到達する節目に今がある。それは高度に発達した霊性を持つ社会である。カテゴリー1のまだ幼稚な地球人類は、そのわけを理解すべきである。
近年、かの宇宙の同胞たちが地球にきて、間接的に人類に覚醒を促すことはよく知られている。そして古来より多くの予言がなされた。
その予言に基づく大変革は、徐々に近づいていると断言しよう。
2019/03/10(日)
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■過去の怨念を振り払う
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北朝鮮が核開発を再会し、その証拠写真が紹介された。米朝会談が決裂し、核廃絶は幻のこととなったが、北はアメリカに浴びせる核ミサイルが完成するまで、開発をやめないであろう。
そして昨日労働党新聞が、日本の過去の植民地時代を取り上げ、厳しく非難した。それは日本が今回の会談で拉致問題をアメリカに要請したからである。
北朝鮮や韓国は、過去の植民地政策で日本が統治したことを怨念として捉え、多くの善良な市民を拉致して監禁し、また今、韓国が慰安婦や徴用工の問題などで過大な要求を突きつけている。
植民地としたことは事実だが、それによりに大きく社会が発展したことも事実である。だが彼らの怒りは、すべて過去のことを忘れない怨念がそうさせるのである。
ここで少し頭を冷やして日本の過去を考えてみよう。日本は勝ち目のない大東亜戦争を起こし、みじめな惨敗に終わった。
大東亜戦争の発端は日本が世界から孤立させられ、行く先が見えない不安から武力に訴えたものであるが、その原因はアメリカのルーズベルト大統領にある。
陰謀によりルーズベルトは日本を窮地に貶めた。そして日本が真珠湾攻撃を仕掛けることを察知しながら手を出さず、イギリスのチャーチルと手を取り合って喜んだという。
ちっぽけな日本などすぐにでも壊滅できると踏んだルーズベルトは、最後に人類最悪の悪魔の兵器である原発を2発も落とし、約20万人が即死し、それを超える人々が原爆症で亡くなり、今も苦しんでいる人もいる。
悪魔の兵器である核を開発し、それを使用した男の運命は現世では英雄であろうが、その魂はすでに消滅させられこの世にはいないといわれる。
それに対し日本は、どんな非難をしたであろうか。戦争を仕掛けたが、原爆の惨禍を受けたことにアメリカを強く非難をしても当たり前であろう。だがその後の日米の緊密さは今も健在である。
この世で一番強い力を持つのは怨念である。その力は強い波動となって終生変わることなく、人々を苦しめる。今やこのネガティブな心は全世界を席巻し、マイナスのエネルギーとなって破局へとつながるのである。
ここに五次元文庫「宇宙が隠した最大の秘密 波動の真理」江本勝著(徳間書店)がある。江本氏は自らの体験より、宇宙の森羅万象は、「波動」の組み合わせでできているとし、5次元世界への扉を開くのは「波動」であると告げられる。
私は次なる文明は、このような次元を超えた世界であると確信する。それはこれまでの常識を覆し、未知なる波動の世界を知ることである。
怨念を持つ人間に未来はない。過去のすべての怒りや悲しみを捨てて未来志向を持つことが、明るい未来を招来すると断言しよう。
2019/03/09(土)
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■日産ゴーン被告
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前、日産会長のゴーン被告が、108日間の拘留ののち条件付で保釈された。その保釈金が10億円だという。目のくらむようなお金を払い保釈されても、事件の解明と裁きはこれからも長く続く。
ゴーン被告の罪状はすべてお金にまつわるものである。それはフランスのルノーや三菱を巻き込んだ三社連合のトップとして、自由奔放に私服を肥やしたからである。
我々庶民には想像もできないお金を回し、独断で采配できたゴーン被告は、どんな裁きが待っていることだろうか。
この世は貨幣経済で成り立つから、金銭にまつわる事件は日常茶飯事である。カリスマ的な面を存分に発揮し、自由に振舞えた過去の遺産はすべて消えた。
これからどんな運命が待っているか、それは神のみが知る。昨日も書いたが、人の脳にはまだ爬虫類の痕跡が残っているとわが師は話される。
これも人類が進化する経過であろうが、金銭や物欲に固着する限り進化はあり得ない。人がホモ・サピエンスから霊的に進化するホモエ・クセレンスへの道程をわが師は本にしたためられた。
その本とは「間脳思考」(平河出版)である。1984年の初版であるが、人が進化を目指す脳の働きについて書かれ、霊性を獲得する手段について詳しく解説される。
その霊性の部位をわが師は次のように述べられる。「大脳の最も中心である間脳の視床下部で、その一番奥にその部位がある。ただし、これが働くためには、そのすぐそばの松果腺という内分泌線の特殊な働きが必要である。
そして松果腺は、脳に下側にくっついている小さな腺で、人間が原始時代の祖先から受け継いできた第三の目の残跡と推定されるという。
わが師はこの間脳の松果腺をフルに発揮され、異次元を自由に視る事ができた人であった。それは人が前世から持って生まれた因縁(欠陥)を見たり、死者の成仏できない魂を仏陀の成仏法により、霊界へ導く解脱供養など多岐にわたる。
人が進化を目指すホモエ・クセレンスの能力とは如何に。それを五つに分けてわが師は述べられる。
1.第四次元の理解 2.複雑な全体をとっさに把握する能力 3.第六感の獲得 4.無限に発展した道徳意識の保有 5.特に我々には不可解な精神的な特質
以上であるが、密教の作法と瞑想によりこの技術を習得すると、だれでもこの能力が獲得できるとされる。だが凡夫の我々は進化した脳を持つには程遠い。
ゴ−ン会長が金銭欲にまみれた人生を過ごされたが、次なる来世はどんな道を歩まれることであろうか。願わくば今生での過ちを深く反省し、来世はより偉大な人を目指されることを願って止まない。
2019/03/07(木)
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■軍拡競争
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中国の国防費が19兆円を越えるという。全人代が開かれ、アメリカを刺激しないような発言がなされているが、アメリカに対応した軍事費の増加は益々拡大するであろう。
日本の防衛予算は5兆円弱、その4倍の国防費は2050年までにアメリカと並ぶという。アメリカの国防予算は50兆円を超えるが、世界の警察官としての役目はゆるがない。
この地球文明は、互いに軍備を競い合うことで発展してきた。あらゆる技術が国を守り、他国を侵略するために使われ発展して今がある。
愚かなるかな人類! 科学や技術が殺し合いのための軍備によるものだといえば、言い過ぎであろうか。かってスエーデンのノーベルがダイナマイトを発明し、その功績により世界一のノーベル賞ができた。
ノーベルはダイナマイトで文明を発展させたが、その裏には火薬で爆弾を作り、戦争を起こして幾千万人の人々を殺戮した。それは物には使い方により、善にも悪にもなるということである。
人と人が信用できず争いの種になる。それは個人だけでなく、集合意識が高まれば地方や国家間の紛争に達し、ついには滅んでしまうのは歴史が証明している。
人類の歴史は戦争の歴史でもある。日々のニュースでも争いや殺人は日常茶飯事で、その件数は益々過激になる世の中であろう。
その原因は何であろうか。それは人類の進化の過程で、闘争本能が脳の中に残っているためである。すなわち爬虫類脳の痕跡である。
詳しくはわが師の著書に譲るが、この爬虫類脳を如何にコントロールし闘争本能を和らげるか、それは霊性を持つ以外に解決の糸口は見つからない。
霊性とは「物質的な欲望や本能を制御し、時には否定さえして、より崇高なるものに憧れる精神領域」だとわが師は喝破される。
その知性(新皮質脳)と霊性(間脳)が一時に花開いた時代があった。高い精神文明はすべて紀元前に完成しており、今はただ先人の後をなぞっているだけだとわが師は言われる。
ギリシアでは紀元前8世紀にホメロスが「イリアス」「オデッセイア」を書き、前7世紀にはイソップが生まれ、前5世紀には数学のピタゴラス、哲学のヘラクトレイトス、悲劇作家のアイスキュロス、ソフォクレス、前4世紀にはソクラテス、プラトン、次いでアリストテレスが活動している。
紀元前5世紀には孔子が生まれて儒教を説き、釈迦が成仏法を説いた。そしてキリストが生まれて愛を説いた。百華繚乱の世はすべて紀元前の人たちであったが、今はその文明をなぞっているだけである。
このまま文明が進めば、更に人々の意識が先鋭化して争いに拍車をかけるであろう。その結末は地球人類の最終章の到来である。
あなたはこの地球人類の末路が予見できないであろうか。
2019/03/06(水)
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■アポ電
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最近物議をかもし出しているのは「アポ電」という詐欺グループであろう。東京都江東区で起きた80歳の老婆殺人事件はこのアポ電によるものであった。
特殊詐欺のグループは、現金を受け取る役の受け子が昨年1580人も検挙され、方針を換えて自ら電話して金のありなしを聞き、強盗に入る手口である。
息子を語り金銭のありなしを聞く。息子だと名乗る詐欺師の声は、電話でははっきり区別がつきにくいという。声が違うといえば、風邪をひいているとかいろんな理屈をつけて偽装する。
私もこの詐欺に弱いところがあり、過去2回詐欺に引っかかった。一度目は今から30年前のことで、当時は資格商法詐欺が盛んだった。
忙しい職場に電話してきて、将来のために資格を取ったらと言う。その名は「中小企業診断士」で、何度も電話してくるのに閉口し、承諾した。
送られてきた資料は1本の録音テープで、聞いてみても何のことか分からない。やっと詐欺だと気づくもあとの祭り。23万円を盗られて悔しかった。
するとその後、いろんなヤツから家に電話が入り、資格を取れと催促される。まもなく生活指導センターから電話が入り、この種の詐欺が横行しているので、気をつけて欲しいとのことだった。
あれから28年、こんな詐欺師との縁は切れたと思っていた矢先、栃木県の業者だというヤツが来て、下水管を掃除させてほしいという。
私は家を新築して以来、40年近く点検や掃除をしたことがなく、15000円だというので承諾したのであった。高圧水で地下に埋まった下水管を掃除してヤツが言う。
「以前に他家の下水管を掃除したとき、台所の流し管のジョイントを高圧水で損傷し、水が漏れたクレームがついたので点検させてほしい」という。
私は承諾し、ヤツは台所の床に設置した床板を外し縁の下の潜る。そして上がってくるとこんなことを言う。
「下水管の損傷はなかったけれど、家の土台が大きくヒビ割れしていて地震が来れば折れる可能性がある」という。またシロアリの巣もあり駆除が必要だという。
幸い道具を揃えているので、すぐにヒビを埋める作業と白あり駆除をしたらという。ヤツらはスマホで撮った写真を見せて現場を説明した。
私は驚いてすぐに契約書にサインをする。処理費は32万円だった。契約が終わった直前、息子が飛んできて大声でこの契約はあやしいという。
その理由は下水道の掃除にかけて縁の下に入り、自分の商売と関係ない土台のヒビ割れを直すという手口である。しかも今すぐにしなければならないようにせかせるのだ。
息子が真剣に拒否するので、私は数日待ってほしいと云い、帰ってもらった。そしてすぐに知り合いのリフォーム屋に電話し、現況を見てもらう。
すると土台のヒビは軽易で修理の必要もなく、白アリの害もないことが判明した。私はすんでのところでリフォーム詐欺に引っかかるところだった。
このように世の中は詐欺に満ちている。人を騙し大金をせしめる。その詐欺師の来世は悲惨なものになろう。それはカルマの法則により、そのお返しを頂くからである。
「善因善果・悪因悪果」すなわち、カルマの法則により人は魂の進化を遂げる。人の本体は魂であり、その魂を進化成長させるために善行を積まねばならない。
人はこれが分かればこの世から犯罪は消えよう。だが、前世からの因縁で人は犯罪を犯す。この犯人は「刑獄の因縁」を持っていた。
私はわが師に師事し、自分が持つ因縁を教えてもらった。だからその悪因縁を切るために日々仏道修行を欠かさないのである。
2019/03/05(火)
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■傘寿の俳人
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毎月の初めに更新する「今月のテーマ」に添える写真を選別する。私は十数年前から、茨木市にお住まいの朝妻力様とのご縁で全国的な俳誌「雲の峰」を頂き、その会員の作品から選んだ俳句をHPの写真に添えている。
写真を俳句で説明しようとの思いで、私はHP開設以来、短歌や俳句を詠んできた。そのHPをご覧になった朝妻氏からの依頼で俳誌から会員の作品を選んで添えるのである。
3月は春の気配で、月末には桜が咲くであろう。また春は花の季節で、いろんな花が咲き競う。その夜桜の写真に会員のこんな俳句を添えた。
俳諧を 一途傘寿の 春迎ふ (田中愛子)
田中さんは今年、傘寿を迎えられた。80歳で俳句を趣味とされ、毎月俳誌に投稿され紙面を飾っておられる。この俳誌は全国的に有名で、会員も200名をはるかに超える。
私も来年は傘寿の齢である。50代半ばで定年後の趣味として写真を始めたものであるが、この趣味は死ぬまで続くであろう。
高齢となり元気で過ごすには、何かの趣味を持つに限る。それが生きがいとなり、健康で認知症とも縁がないかもしれない。しかし、さすがにこの齢となれば、遠出して写真を撮ろうとの意欲は減退した。
フイルムカメラから始まった私の写真は数千枚に達する。今はデジカメで子供でも写せるが、昔はカメラが高価で高額所得者しか持てなかったものである。
朝妻氏の主宰される俳誌の会員も私のような老人が多い。俳句や短歌はわずかな文字で自分の思いを最大限に表現できる。これは日本独自の文化であろう。
だから多少頭が衰えても年齢とは関係ない。私の俳句や短歌は自己流で、誰に教わったものでもない。しかしそれで結構。
インターネットという通信革命で、この齢になっても挑戦できる遊びを持てたことを、生涯の宝としよう。
2019/03/03(日)
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■アカシックレコード
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アカシックレコードとは、この宇宙が創生されて以来、すべての記録が保存されている超記録の保管庫で、そこにアクセスできれば自分の過去世がすべて分かる。 アクセスできるのはほんのひと握りの霊覚者で、高度に発達した霊人であるが、人類に真実を悟るよう使命を受けて生まれるも、前世の記憶を忘れているため普通の人と変わりない生活を送っている。
ここに一冊の五次元文庫がある。その名は「生きて意識ある地球はこうして生まれた」アマーリエ著(徳間書店)だ。
アマーリエ氏は1956年に東京に生まれ、教育者の家庭に育つも、キリスト系ミッションスクールで学び、大学では哲学を専攻、卒業後は良き主婦として5人の子供を育てる。
1998年春より天上界の最高次元の霊人よりメッセージを下ろされ、これを世界に伝えるという役を引き受けるよう依頼される。以来、2002年秋より100人を超える天上界の霊人からのメッセージが彼女を通して降りはじめ、20冊の著書がある。
彼女は非常に優れた、たぐいまれなチャネラーであり、天上界の特別な協力もあって高次元からのメッセージを受け取ることができると紹介されている。
アカシックレコードはこの宇宙が創生されて以来の記憶が保存されており、その一部始終をこの著書に表された。記事は我々の常識を覆すことばかりで、ある程度知識がないと理解できないであろう。
私は40年に及ぶ異次元探索の本をあさり続けてきた結果、この本に到達できた。その根幹はこの地球の運命を知ることである。
この激動の時代、これらの書物の出現は必然であった。それは地球の出自を知り、「我々はどこから来てどこへ行くのか」の問いである。
太古の昔、この地球には幾多の異性人により動植物が移植され、彼らが住み、彼らにより地球に適した人類が遺伝子操作で創造された。その根幹を成すものは創造主や九次元霊界に達した神人たちである。
この地球は太古の昔から文明が発達し、ゴンドワナ・レムリア・アトランティス・ムーなどの文明を横臥してきた。しかし、いずれも人類の堕落により、天変地異を伴って滅亡したという。
そして今、また地球人類はアトランティス文明の末期に酷似し、その行く末を危惧した宇宙の同胞たちが間接的に援助にやってくるのである。
この大宇宙は自由意志と自己責任で成り立ち、原因と結果の法則、波長同通の法則、カルマの法則などで運営される。そして輪廻転生をしながら、魂の進化を目指すのである。
今や世界が人心の乱れで、いつ不測の事態になるか余談を許さない。この不穏な世を如何に過ごすか、それは霊性を持つ以外にないことを訴えよう。
2019/03/02(土)
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■米朝会談
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ハノイで行われた米朝会談が物別れに終わった。トランプ大統領の完全核廃絶と制裁解除を求める北朝鮮の思惑が外れ、話は振り出しに戻った。
これは私が予想していたことである。北は三代続いた核の開発を、そうたやすく放棄できない運命にある。この会談以後も相互に駆け引きが行われ、双方が望む合意は当分見込みがないであろう。
今、インドとパキスタンの間にまた騒動が起こり、互いに殺し合いが行われている。この2国は核兵器を持ち、それがエスカレートして核戦争にでもなれば、地球の危機が訪れよう。
人類の進化の最終段階は、必ずこの核兵器の開発を経るという。それは宇宙の進化した兄弟である異性人が、異口同音に話す言葉である。
太古の昔、この太陽系の火星と木星の間に「マルデック」という惑星があった。地球に人類が出現するはるか以前に、相当高度な文明を持つ人類が生活していたという。
この星ではすでに核エネルギーが発見され、原子力発電以外に核兵器まで製造されていたのである。彼らは好戦的で局所的な戦争は常に行われていたという。
あるとき、マルデックに住む人々が利権争いで真っ二つに別れ、戦争を始めてしまう。そして互いに憎しみ合い、双方が核兵器を使って戦ってしまった。
結果は悲惨なものとなった。そのころ、マルデックに巨大な隕石が近づいていた。それは人々の想念のエネルギーが引き寄せたもので、この隕石が正面衝突し、惑星の核を含めて粉々に砕けてしまったという。
現在の「小惑星帯」と呼ばれるものは、このバラバラになったマルデックの変わり果てた姿だという。
宇宙の同胞たちが一様に危惧するのは、この核を使う愚かな戦争である。人々の集合意識ほど強烈な力はなく、隕石まで呼び寄せるとは驚きだが、核を開発する過程で行う「地下核実験」や核ミサイルの開発は、地球に住む神霊がどんなに痛みを感じているか想像したことはあるであろうか。
愚かな人類は最終兵器の核を開発し、その核により未来に大きな破滅のカルマを残した。私は、わが師が常にこの危機を話されたことを覚えている。
文明が発達した今、人類の生死を決める限界点が近づきつつある。
2019/03/01(金)
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