■国公立大学試験
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私の次男の娘が今年、大学を受験する。早いものでもう大学生になるが、希望の大学に合格するよう、私は近くの神社にお参りをする。
神社の名は明神社で、歩いて10分ほどのところと30分のところに2箇所がある。いずれも昔村だったころに建てられた神社で、大切に管理されている。
少子化で学生が少なくなったとはいえ、競争倍率は5,6倍だという。合格すればお祝いを上げねばならないが、人生を左右する大きな岐路を迎えた。
私の時代は大学は夢のまた夢で、進学した同級生は総て高卒だった。今のように大学の数も限られ、家が貧しく大学どころではなかったのである。
今、自分の人生を振り返ってみると、全く運が良かったといえよう。それは遠く離れた市の工業高校を受験したが、合格して下宿したのは学校に近い知人の家だった。
この知人は戦後の物資不足の時代、金物の商いをしていた人で、古い金属を買う商人だった。その古い金属が私の家の近くに眠っていたのである。
それは水力発電所の工作室跡だった。私の家から約1km上流の庄川に大規模なダムを築き、出力45000kwの水力発電所が完成したのは戦時中の昭和17年である。
その修理工場の跡に、鉄くずや銅くずが眠っていたのである。当時は特に銅が高値で売れて、そのくずを拾うのが大きな小遣いとなった。
その金属くずを買いに来た商人を泊める宿が私の家だったのである。その縁で私は知人が住む高岡市で3年間下宿することになる。
下宿料は月に5000円で、母が農協の事務員をしていたため、その給料から払っていた。父は水飲み百姓で、とても私の学資を払えるような稼ぎがなかったのである。
就職試験はまだ難関で、父が勧めた電力会社を目指し就職活動をする。父は村から水力発電所に勤めていた人が高給で、うらやましかったのであろう。
だが私は機械化卒で、電力会社は大阪の火力発電所勤務になるという。それを知った私は長男でもあり、父母や祖父母を残し関西に行くことを断念した。
それからまもなく地元の電力会社の入社試験があり、私は学校長の推薦で受験できた。そして9倍の倍率で入社を果たす。
勤務は他県の遠い時もあったが故郷を離れても近い富山市で、祖父母も亡くなり私は市内に住居を構える。以来65年、私も81歳の老境となり、ふるさとも処分して現在がある。
今は安らかな老境を満喫しているが、かわいい孫にも良い運を願うのみである。
2021/02/25(木)
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